長崎大学医学部(旧長崎醫科大学):長崎大学病院(旧長崎醫科大学付属医院)

 爆心地より東南東約500m(銘板碑文参考)

長崎大学医学部 (旧 長崎醫科大学)

 安政4年(1857) ヤパン号でJ.L.C.ポンペ・ファン・メールデルフォールト来日。
 同年11月12日長崎奉行所の西役所(現在の長崎県庁所在地)において、松本良順ら12名に初めて系統的近代西洋医学教育を開始する。 長崎大学医学部創立の日です。
 昭和20年(1945)8月9日 長崎大学医学部は世界で唯一、原子爆弾の被害を受けた医科大学となっています。
 写真・長崎医科大学の正門周辺

正門周辺と正門
正門周辺と正門
良順会館
良順会館
ポンペ会館
ポンペ会館
再興した鉄門
レトロ調の正門が復活

原爆被爆当時の長崎醫科大学の状況

全壊した長崎医科大学跡

 長崎医科大学(長崎醫科大学)は爆心地から東南東へ約500mの丘の上あり、当時、木造の本館校舎・各基礎学教室と医学専門部、及び薬学専門部からなり、 隣接して(南東約700m)付属医院(地上3階、地下1階)が建っていました。
 被爆当時、本来なら8月は夏季休暇期間中であるが、当時は非常短期速成で休暇を返上して講義が行なわれていました。
 原爆の炸裂と同時に本館と校舎等の76棟のうち65棟は倒壊、そして火災が発生し全焼、付属医院の外壁は残りましたが、内部は焼失してしまいました。
 講義中の五つの講堂の焼け跡からは教授は教壇に、学生は机に着席したままの姿の遺骨が発見されたという。瞬間的な校舎倒壊であったことがまさに示しています。
 長崎医科大学における死亡者数は、付属医院の関係者を含め、大学関係者と学生を合わせて898名(原爆復興50周年記念長崎医科大学原爆記録集第1巻・平成8年調査後1名追加)が犠牲となりました。
写真・原爆被爆直後の長崎医科大学(米軍陸軍病理学研究所返還写真)

旧配電室(ゲストハウス)

 1931年(昭和6)2月に建設。鉄筋コンクリート平屋建て。
 原爆の爆風にも耐え、ほぼ原型のまま配電室が残ったのは、戦前の建物のコンクリートが小石を混ぜ、川砂で気泡を詰めた、 分厚いコンクリート造りであったからと言われています。
 戦後1965年(昭和40)に改修され、現在は外国人留学生や研究者の短期宿泊用施設として使われています。被爆地から半径1キロ以内に残る数少ない被爆建造物です。

長崎医科大学・ゲストハウス
ゲストハウス
旧長崎医科大学配電室
旧長崎医科大学配電室

原爆復興50周年記念碑

 記念碑の空に向かった高さ8mの尖塔は原爆の炸裂点を示し、空に向かって急峻にそびえ立つ姿は、長崎大学医学部の未来への大きな飛躍を象徴している。
 1996年3月建立

原爆復興50周年記念碑
原爆復興50周年記念碑
原爆犠牲者の銘板
原爆犠牲者の銘板

長崎医科大学慰霊碑「グビロが丘」

グビロが丘・慰霊碑

 ポンペ会館裏手の雑木林の小高い丘で、この丘を登る道沿いには虞美人草(ぐびじんそう)の花が咲き乱れているたので「グビロが丘」という名が付けられたと言われています。
  原爆投下後は、丘全体が熱い熱線で木々は燃えてしまい、枯れ木山のような姿になっていました。
  かろうじて即死を免れた多くの重傷者がここに逃げてきたが、やがてその多くは水を求めながら次々と亡くなっていきました
  命を落とした構内「グビロが丘」では、敗戦後の10月から11月にかけて数多くの学生たちの遺体が収集・埋葬されました。これによりグビロが丘は原爆の惨劇を象徴する聖地として位置づけられるようになりました。
  ポンペが講義を開講した日付である11月12日の開学記念日に、この丘に大講堂の玄関に用いられていた花崗岩を用いて慰霊碑が建立(1947年11月12日)されました。
 碑の正面には古屋野元学長の筆による「慰霊碑」の大文字が雄渾に刻まれています。
 (現在の碑は1957年に建てられたもの・長崎医科大学原爆犠牲者遺族会が13回忌に再建)

永井隆博士の句

慰霊碑の台座の裏面には、救護活動にあたった永井隆博士の「傷つける  友をさがして火の中へとび入りしまま  帰らざりけり」という句が刻まれてあります。

グビロが丘・虞美人草(ひなげし)

4月~5月頃になると「グビロが丘」の周りに美しい虞美人草(ぐびじんそう)が咲いています。

旧長崎医科大学(長崎醫科大学)正門門柱

 国指定史跡「長崎原爆遺跡」2016年10月3日指定

長崎医科大学・旧正門門柱

 現在の長崎大学医学部の裏門(図書館の裏)に、1.2m四方、高さ2.1m(土台部分を含む)の旧長崎醫科大学時代の正門門柱が、被爆当時のまま保存されています。
  門柱の側面にある石板には
「1945年、昭和20年8月9日、よく晴れし日の午前11時2分、世界第2発目の原子爆弾により、一瞬にして、わが師、わが友850有余名が死に果てし長崎医科大学の正門門柱にして、被爆当時の儘の状態を生々しく此処に見る」と書かれてあります。又、 門柱の側に建てられた石柱には、「原爆の爆風のもの凄さをここに今尚ここに見る」と刻まれてあり、原爆の脅威が生々しく伝わってきます。

傾いた正門門柱

門柱は、1.2m四方、高さ1.8m、台座のうえにまっすぐ座っていました。8月9日を境に左側の門柱は9cmも前にずれ、台座との間に最大で16cmの隙間ができました。これは爆風の圧力を測定する基礎となりました。

長崎大学病院(旧:長崎医科大学付属医院)

爆心地から南東約700m

被爆した長崎医科大学付属病院

当時、付属医院では臨床各科に学生は配属されて卒業試験が行われている時であった。堅固(けんご)なはずのコンクリートの医院の建物が崩壊しやがて火に包まれた。炎上する付属医院ではほぼ半数が命を失い、生き残った入院患者、学生、教職員が悲惨なきわまりない状況であった。 炎上する医院を逃げて多くの大学職員学生と患者は近くの穴弘法山に一時的に退避し、その後医療救護の第一歩が、黒焦げの変わり果てた付属医院で始まった。

入院患者の被爆状況
 原爆投下に先立つ8月1日、付属医院に250キロ爆弾が投下され3名の学生が犠牲となった。
 この後入院患者の退院帰宅が進められ、重症者を残して軽症者のほとんどは原爆投下日までに退院していた。
 原爆投下時には入院患者107名と付添人20名がいた。外来患者の被爆状況は全てのカルテと書類が焼失し、全くわからない。
 庶務課の原子爆弾統計表と原子爆弾当時人員一覧によれば、入院患者数はともに107名、死亡者数はそれぞれ53名と54名で1名の違いがある。付添人は20名中19名死亡と一致した記載がある。
引用文献:「原爆復興50周年記念 長崎医科大学原爆記録集 第一巻」

水壷を捧げる子供の像(長崎大学病院玄関前)

水壷を捧げる子供の像

 長崎大学病院玄関前に、出島の扇形を形どった池と、大きな水壷を持って水を落とし続ける子供の像がある。
 作者・西大由氏は、愛の泉を湧き出させ、病める人々に神の恵みをという願いを表現した。 作者も、当時長崎医科大生だった弟を亡くしているが、この像には水を求めながら亡くなった亡弟への鎮魂の意味も込められている。

長崎医科大学(旧長崎醫科大学・現在長崎大学医学部)マップ

所在地:長崎市坂本町1丁目12
アクセス:浜口電停から徒歩約10分:医学部前バス停より約1分
長崎医科大学付近(Google マップ)

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