三菱兵器住吉トンネル工場跡

 爆心地より北約2.3㎞(文 銘板碑文参考)

三菱兵器住吉トンネル工場とは

 第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、戦況の悪化に伴い、国内への空襲が激化してきたため、軍需工場の疎開、分散、地下移設などで軍需生産の長期確保と強化を図ることが当時の内閣で決定された。これにより、長崎の軍需工場は、日見トンネル、戸町トンネルなども片側半分を仕切って工場にした。
 三菱兵器住吉トンネル工場は、三菱長崎兵器大橋工場(現在・長崎大学 文教町1)の疎開工場として、住吉~赤迫間の山に並列して6本のトンネルを掘り、24時間体制の交代勤務で、魚雷部品(航空機用)の製造を行っていた。
 6本は高さ3m・幅4.5m・長さ約300m・間隔約12.5mで掘られ、トンネル間は内部に連絡通路が造られ結ばれていた。被爆当時は、1・2号トンネルはすでに完成し780台余りの機械が移され稼動中、3・4号トンネルは貫通していたが未使用、5・6号は掘削工事中であった。
 被爆当時トンネル内外には、約1,800人余りが航空機用の魚雷をつくるために昼夜2交代労働に従事。内約800人は掘削工事の労務者で、なかには強制連行された朝鮮人もいて労働を強制されていた。ほとんど手作業で進められていた。
 それと、トンネル工事が始まると付近に住む住宅5世帯は強制撤去となり、軍需工場の疎開の犠牲となり、住みなれた土地を去らなければ成らなかった。
 1945年8月9日の原爆落下時、爆心地から約2.3kmに位置しているこのトンネル内での作業者は、辛うじて即死は免かれたものの、その多くが負傷。トンネル出入り口付近の人、トンネル外にいた人は殆ど強烈な爆風で爆死か重傷を受け、トンネル内は否応なく応急手当ての場所となった。午後からは兵器大橋工場や他の工場、市民の人々が大勢避難して来て、負傷者で大混乱となり息絶えた人も大勢出た。

三菱兵器住吉トンネル工場(跡)(1号トンネル工場)

 (1号トンネル工場)

三菱兵器住吉トンネル工場(跡)(2号トンネル工場)

 (2号トンネル工場)

三菱兵器住吉トンネル工場(跡)(2号トンネル工場内部)

 (2号トンネル工場内部)

施行前の様子、6本のトンネルが見える(2007年8月当時)

施行前の様子、6本のトンネルが見える(2007年8月当時)

三菱兵器住吉トンネル工場(跡)周辺(2009年1月現在)

 三菱兵器住吉トンネル工場(跡)周辺(2009年1月現在)

戦後まもなく赤迫側から撮影されたトンネル工場周辺の外観

戦後まもなく赤迫側から撮影されたトンネル工場周辺の外観(写真撮影:石田寿氏)

工場内の様子

被爆当時の宿舎等の位置

被爆当時、トンネル工場周辺にあった宿舎等の位置
(参考:原爆と朝鮮人第1集)

 当時の残された記録や関係者の回想などによると、おおむね、以下のとおりでした。
 「トンネルの中は、添え木もコンクリートも無く、岩肌が露出しており、しずくがおちてきていた。海軍少佐が工場長で、工場内は作業中に見回りがあり、厳しかった。
 トンネルの手前の方には機械を据えて作業しながら、奥の方では、掘削作業が並行して行なわれ、発破した際には、硝煙で息もできないような状況もあった。」
 「トンネル内に、突然、薄青い光、大きな音、爆風が走った直後、停電した。頭上から岩のかけらがバラバラと落ち、水滴防止のトタンがガラガラと崩れ落ちた中を、手探りで這うようにして外に出ると、点々と建っていたわらぶき屋根の農家がボウボウと音をたてて燃えていた。
 トンネルの外にいた人は、強烈な爆風で飛ばされて機械にぶつかって死んでいたり、飛来物で負傷していた。
 皆、工場を目標に攻撃され、近くに爆弾が落ちたと思っていた」

動員された人々

 記録や当時を知る人の話によると、当時の長崎には、軍事工場が多数あり、学徒、挺身隊、徴用工等が動員されて各地で働いていた。
 トンネル工場では軍の管轄下で兵器(魚雷)生産に関わる作業が行なわれており、その作業に動員された人達が従事していた。
 トンネル工場周辺には工員として動員された人達のための寮が建てられてあり、また、土木工事をする人達等のための飯場がいくつもあり、その居住者の多くは朝鮮人労働者であった。
 その中には、強制的に動員された人もおり、トンネルの掘削工事で過酷な労働に従事していた。彼らは3交代で、発破後のトンネル内で掘削作業や、発破による排出される土や石をトロッコで排出したり、トラックに積んだりするような屋外作業を主に行なっていたと言われている。

作業内容

 兵器生産にあたった多くの人達は、年若い10代から20代ぐらいで、長崎市内のほか、県内外からも動員されていた。
 就業体制は、2交代の人と3交代でなされ。2交代の人は昼勤もしくは夜勤で1日約12時間働いた。3交代の人は一番方、二番方、三番方と呼ばれ、朝8時から夕方5時まで、5時から12時まで、12時から朝8時まで働き、魚雷の部品を作っていた。
 当時の記録や体験談によると、トンネル工場では、次のような部品の製作が行なわれていたと言われている。
 1号トンネルでは、魚雷の胴体部分や舵の部分、部品の継ぎ目を削る作業が行なわれていた。
 2号トンネルには精密部門が入っており、航空機用魚雷の推進の部品、舵の部分、動きを安定させる部分を作っていた。
 トンネル工場で作った部品は大橋工場に運ばれ、そこで組み立てて魚雷を完成させていた。
 航空機用の魚雷は月産80本ぐらいであたという。

当時はこのような工作機械が使われていた(写真提供:日本工業大学博物館)

当時はこのような工作機械が使われていた
(写真提供:日本工業大学博物館)

写真と同型の魚雷の部品が製造されていた(展示:福済寺)

(展示:長崎市筑後町・福済寺)

被爆と救済活動

 1945年8月9日11時2分、長崎市松山町の上空で原爆が炸裂。
 トンネル工場では、この日、三菱の工員をはじめ、各地からの動員学徒や挺身隊からなる約1800人が魚雷部品の生産等に従事していた。
 また、トンネル工事の稼動と並行して掘削が続けられており、朝鮮人約800人~1,000人が従事していました。
 トンネルの外にいた人は、ほとんどが死亡。全身におよぶ火傷や重い傷を負っていた。トンネル内にいてかろうじて大きな被害を免れた人は、原爆を受けた直後からトンネルに避難してきた負傷者の応急手当をしたり、大橋工場等の同僚の救援に行ったりした。
 彼らは、2~3日程、同僚の救援や集まった負傷者を病院へ搬送するため救援列車まで運ぶ手伝いをした後、家族のところへ帰るなど、それぞれトンネルを離れて行ったと言う。

戦後まもなく米軍による調査の際に撮影されたトンネル工場内の様子

戦後まもなく米軍による調査の際に撮影された
トンネル工場内の様子

戦後まもなく撮影されたトンネル工場内部の様子(撮影:米軍)

 戦後まもなく撮影されたトンネル工場内部の様子
  (撮影:米軍)

負傷者の手当て

 当時の残された記録や関係者の回想などのよると、おおむね、以下のとおりであった。
 「原子爆弾の炸裂により、トンネル工場内は強い爆風を受けたものの工場は大きな被害はなかったが、大橋工場や近隣にあった学徒や挺身隊、徴用工の宿舎では大きな被害を受けた。トンネル工場は、大橋工場や宿舎等からの重軽傷者が殺到して避難所と化した。」
 手が吹き飛ばされている人、内臓が露出している人、全身血まみれの人、全身に火傷を負った人、火傷した部分が水ぶくれの人、皮膚が垂れ下がっている人で、トンネル内は混乱状態になった。
 トンネル工場は避難してきた負傷者等でいっぱいになったが、医療品は多くなかった。布等で出血を止めてやるくらいで、重傷者は寝かせてやるのが最高の手当てだった。旋盤に使う油を、火傷した部分に落としてやると、痛みが和らいだようだった。
 「ひどい火傷を負った負傷者の多くは水をほしがったが、飲んだら死ぬと、水を与えられなかった。トンネル内で息絶えた人々も多かった。」
 「次の爆撃を受けたらトンネルが崩れるかもしれないということで、トンネル内に避難していた人々は赤迫側の山手の野原に移動をした。ここで力尽きる人も多かった。」
 「原爆を受けた翌日の8月10日夜11時頃、大橋工場の復旧応援のための海軍からの救援隊がトンネル工場に到着し、その一員の軍医らにより応急手当がされた。1号トンネルを受付にして、2号トンネルで種油を塗布する等の手当てがされた。ガラスの破片の抜き取り、傷口を縫い合わせするなどの外傷的な手当てを要する負傷者には、所定の救護所に行くよう助言された。」

三菱兵器住吉トンネル工場(跡)

所在地:長崎市住吉町及び赤迫町
アクセス:路線バス:長崎バス・滑石(なめし)・時津方面行きに乗車、「住吉」バス停下車、徒歩約15分
     路面電車:赤迫行き(系統NO1、NO3)乗車、「住吉」電停下車、徒歩約10分
     専用駐車場なし
     三菱兵器住吉トンネル工場(跡)付近(Google マップ)

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