長崎に原子爆弾が炸裂
1945年(昭和20年)8月9日、長崎は真夏の暑い日が続いていた。
原子爆弾を搭載した米機B29「ボックスカー」が長崎上空に侵入し 高度約9,600m上空から原爆が投下されました。原爆は当初の投下目標より、北北西3.4キロの松山町上空約500mで午前11時2分に炸裂しました。
一瞬、閃光が全てを覆いかくし強大な爆風、熱線があらゆるものを破壊して焼き尽くしてしまいました、あわせ放射線が人々に襲いました。
(熱線は、爆心地表面温度で3,000~4,000度、1km以内で約1,800度。
爆風は、爆心地から1km離れた所で秒速170mに達した。)
【参考】
原爆のエネルギー割合:総エネルギーの約50%が爆風、約35%が熱線、残り約15%が放射線と推定される。
被害状況
原子爆弾投下による被害状況 ※ 1945年12月末までの推定(1950年/長崎市原爆資料保存委員会調査から)
死 者 73,884人 (65%は子供、女子、老人)
重軽傷者 74,909人
罹災戸数 18,409戸 (全焼11,574戸、全壊1,326戸、半壊5,509戸)
死傷者約15万人は、当時の長崎市人口約24万人の62%にあたる。
全焼失面積は、市街地の1/3にあたる6.7平方kmにもなります。
長崎に投下された原子爆弾
「長崎型原爆:ファットマン」
長崎に投下された原爆は、形状からファットマン(ふとっちょ)と呼ばれた。
長さ・3.25m、直径・1.52m、重さ・4.5トン
核物質・プルトニウム239 6.2kg
「ファットマン」はTNT火薬換算で21,000㌧相当の爆発力
【参考】
広島型原爆:「リトルボーイ」長さ3.0m、直径76㎝、重さ4.0トン 核物質・ウラン235 64㎏ TNT火薬換算で16,000㌧相当の爆発力
長崎原爆落下中心地(国指定史跡「長崎原爆遺跡」2016年10月3日指定)
原子爆弾が投下された長崎市松山町。黒御影石の石柱が、原爆落下中心地を示し、周囲はこの上空約500mで炸裂したことを表す同心円の広場となっています。
原爆落下中心地標柱前の原爆殉難者奉安箱には原爆死没者名簿をマイクロフィルム化したものが納められている。
令和5年(2023)年原爆死没者名簿奉安者数
令和5年(2023)年8月9日現在 195,607人
(増加人数 3,314人:令和4年8月1日~令和5年7月31日受付分)
浦上天主堂の遺壁
原爆の炸裂により破壊された、浦上天主堂の遺壁。この側壁は聖堂の南側の一部で、壁上の石像はザベリオと使徒です。浦上天主堂は爆心地の東北東約500mの場所にあり、1958年(昭和33年)にこの場所に移設されたものです。
(長崎原爆資料館内にも残骸堂壁の一部が再現されています)
被爆当時の地層
原爆中心碑から下の川に降りると、被爆当時の地層を見ることができる。上の層は被爆後の復興工事で埋め立てられたもので、その下の黒い地層が被爆以前の地表面です。地下2m程にある赤い地層からは100余りの人骨や石に付着した溶けたガラスの破片や気泡だらけの瓦、 炭化した木片が出土しました。この地層では、瓦、レンガ、熱で溶けたガラス、茶碗、針金など、当時ここに住んでいた人の生活の様子がうかがえる。
松山町・下の川
当時松山町には、約300世帯、1,860人余りの市民が生活していましたが、偶然にも防空壕の中にいた9歳の少女を除き全員が即死した。壊滅した松山町は想像を絶するような熱さの地獄と化し、いくつもの黒焦げの死体が荒れ果てて焼けた土に横たわっていた。むごたらしい被害の跡は、まさにこの世の終わりを思わせるものだった。
下の川上流で家屋解体工事にきていた長崎工業学校の先生、生徒数名も爆死しました。また大勢の人がこの川に水をもとめ群がり、死んでいきました。
爆心地直下の惨状(下の川・銘板碑文より)
1945年(昭和20)8月9日、午前11時2分、この松山町上空で原子爆弾は炸裂した。町の東部を流れるこの下の川は、おびただしい死体で埋まっていた。
水を求めて川辺にたどりつき、そこで力尽きて息絶えた者、また、川まではい寄る途中で倒れ、焼死した人々の遺体が数多く並んでいた。その惨状を目撃した被爆者は次のように書き残している。
「下の川の、なかば崩れた松山橋を渡る時―ああ、その下には川の水も流れることもできないほどの人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを想わせる。
この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れわたった青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。」(「長崎の証言」1970より抜粋)
現在の護岸には被爆当時の石が用いられている。これは1984年(昭和59)~1985年(昭和60)にかけての河川改修に伴ない、いまも原爆の熱線の跡を残した被災資料として、現在地に留め残したものである。
1997年(平成9)8月 長崎市(原爆資料館)
旧浜口町電停付近の下の川護岸
1945年8月9日当時、松山町と浜口町の町境になっていたこの下の川には、市内電車が通る下の川橋(鉄橋・爆心地から南約250m)が架かっており、長崎市中心部から北部に向っていた電車がこの橋を過ぎた地点で被曝。
電車は爆風によって破壊され、この電車の乗客は熱線により火傷し、爆風により線路脇の溝に吹き飛ばされ死亡した。
なお、原爆の熱線によって変色した石垣の一部が、近くに設置されている銘板の後の石垣に保存されている。
平和を祈る子
1967年8月9日、「長崎平和折鶴会」が設立。
原爆地付近には多くの学校があり、原爆で亡くなった少年少女は約1万人ともいわれています。この像は、被爆20周年に長崎平和の折鶴会が国内外から募金を集め、人類永遠の平和を象徴する像として建てられました。
台座には世界15ヵ国と国内各都道府県から「平和の石」として贈られた石がはめ込まれています。
原子雲の下で
母さんにすがって泣いたナガサキの子供の悲しみを二度と、くりかえさないように。
大砲の音が二度となりひびかないように、世界の子供のうえに、いつも明るく太陽が輝いていますように。
長崎誓いの火
1983年8月、ギリシャ政府の特別の許可により、人類最後の被爆地長崎に送る聖火が、オリンピアの丘で採火されました。オリンピック以外の目的で聖火が
ギリシャ国外に出るのは極めて例外的なことです。古代オリンピアでは「聖火が灯されている間は、すべての戦いが止められた」と言われています。この火が灯っている間は世界のどこにでも核戦争を起こさせない。
長崎を人類最後の被爆地とする『誓いの火』として、この火を点火し続けようという「灯火台建設」運動が始まり、
日本各地、そして海外からも寄付金が寄せられ、昭和62年(1987)8月1日に設置された。毎月9日と8月6~9日に点火されます。この火は「世界中からすべて核兵器が廃絶されるまで」灯し続けられます。
(平和公園内・爆心地周辺)
未来を生きる子らの像
1996年3月建立。(長崎市原爆資料館・屋上庭園)
原爆落下から10日目の8月19日、爆心地から約4km離れた滑石(なめし)の打坂というところの畑の中で、二人の少女が積み上げられた木材の上に、あの頃、見たこともない立派な晴れ着姿の10歳前後の姉妹であろうと思われた薄化粧の少女が寝かせられていました。
死んではじめて着せられた晴着、死んではじめてされた化粧。
その美しく悲しい姿を目のあたりにした少年は、この悲しい情景を脳裏に焼き付けていました。29年後に少年はその悲しい物語を残そうと、1枚の絵「悲しき別れ-荼毘(だび)」を描きました。
長崎原爆中心地(原爆落下中心地)公園マップ
所在地:長崎市松山町アクセス:松山電停(バス停)から徒歩2分
長崎原爆中心地(原爆落下中心地)・Google マップ