浦上天主堂(長崎教区カトリック浦上教会) : Urakami Cathedral
浦上天主堂の歴史と由来
浦上は、戦国時代の末頃から、キリシタンの村であった。その後、徳川幕府のキリシタン弾圧、近くは1868年(明治元)浦上村民総流配が決定され、名古屋以西の21藩に
浦上信徒3,414人が流配された。1873年(明治6)キリシタン弾圧は停止され信徒たちは帰村したが、なによりも欲しかったのは、「神の家」魂のよりどころである天主堂であった。
1880年(明治13) 信徒たちは旧庄屋屋敷を買収して仮天主堂とした。
1895年(明治28) 長い弾圧と流配の打撃から生活の再建も充分でなかったので、この年になってようやく天主堂の建立に着工。
主任司祭フレノ師(フランス)が設計監督し、信徒たちは材料運搬などの労力奉仕のほか、それぞれ分に応じた献金をした。
設計は石と煉瓦造りの壮大なロマネスク様式であったが、資金難から工事はとだえがちで、1911年(明治44)フレノ神父は過労に倒れた。後任のラゲ神父(ベルギー人)
が工事を続行したが、早く完成するため屋根を木造瓦葺に設計変更した。
1914年(大正3) 20年の歳月を経て、赤煉瓦造りの天主堂が完成し、3月17日浦上信徒発見の記念日に、コンバス司教によって献堂式をあげた。床面積1,162㎡(352坪)東洋一の天主堂であった。
1925年(大正14) 双塔ができて、2個の聖鐘がつるされた。着工から30年目であった。
1945年(昭和20) 8月9日原爆被災により破壊焼失した。 信徒も12,000人のうち、8,500人が爆死したと推定されている。
1959年(昭和34) 原爆被災前の天主堂をモデルにして鉄骨コンクリート造りの現在の天主堂が落成し、11月1日ローマ教皇庁公使フルステンベルグ大司教によって聖別された。床面積1,679㎡(509坪)。
1962年(昭和37) 1月1日大司教座聖堂(カテドラル)に指定された。
1980年(昭和55) 完成後21年経過したこの天主堂はあちこち補修の必要にせまられていた、ときあたかもローマ教皇様の訪日がきまりつつあり、有史以来初めてのこの慶事を記念して、
歴史性の高い原爆被災前の天主堂のように外装は赤煉瓦造り、窓は全部ステンドグラスにするなど内装も立派に整備して10月完工した。
なお浦上は現在信徒数が8,500人、日本でも一番、信徒数の多い小教区である。
被爆当時の浦上天主堂
旧浦上天主堂は、30年の歳月をかけ完成し、当時としては、東洋一の規模を誇る大聖堂といわれていたが、1945年8月9日の原爆投下により天主堂はわずかに赤煉瓦の堂壁を残して倒壊。
浦上地区の信徒約12,000人のうち約8,500人が爆死した。
(浦上天主堂遺壁 小林虎彦氏撮影)
Urakami Cathedral
The former Urakami Cathedral was completed in 1925 after 30 years of labor.
The completed church was the biggest church in the East. However, Urakami Cathedral was destroyed with the atomic bomb on August 9, 1945. Then, Urakami Cathedral was rebuilt in 1959.
Although there were about 12,000 believers, about 8,500 persons died from the atomic bomb.
浦上天主堂(爆心地より東北東約500mの地点に建っていいる)
明治13年(1880)浦上の信徒たちは、かって「踏み絵」の行われた浦上山里村の旧庄屋、高谷屋敷跡を買い取り、明治28年(1895)建築開始、
大正3年(1914)3月献堂式が行われ、大正14年(1925)双塔完成し、大小二つの鐘が吊るされた。30年もの勤労奉仕と献金活動によって、石と赤煉瓦造りのロマネスク様式聖堂、
赤煉瓦の壁面には84個の天使の石像が取り付けられ完成した。しかし、この大聖堂も石像も1945年8月9日の原爆投下により瓦礫の中に散乱倒壊しました。
参堂していた神父2名、信徒24名が旧浦上天主堂と運命を共にしました。浦上地区の信徒約12,000人のうち約8,500人の人達が被爆死したといわれています。
昭和34年(1959)鉄筋コンクリート造りで再建され、昭和55年(1980)外壁を煉瓦タイルに改装、内装工事も行う。
収容人員は約1250名
天主堂正面の被爆像「悲しみの聖母マリア像」「使徒聖ヨハネ像」
「悲しみの聖母マリア像」原爆で指が欠けたが、破壊されず残った。 |
「使徒聖ヨハネ像」原爆で鼻が欠けたが、破壊されず残った。 |
中央の「十字架のキリスト」像は原爆で破壊したため複製。(破壊された像は信徒会館内に保管展示されている) |
浦上天主堂・旧鐘楼(しょうろう)国指定史跡「長崎原爆遺跡」2016年10月3日指定鐘楼には、左塔(北側)に小鐘、右塔(南側)には大鐘とフランス製の大小二つの鐘が吊り下げれていたが、原爆により左塔の小鐘は大破し、現在、その破片は信徒会館内に保管展示されている。 右塔の大鐘は奇跡的にも瓦礫の中から発堀され、再建された浦上天主堂・右塔より昔な音を浦上の丘に鳴り響かせている。 左塔の鐘楼は直径5.5m、重さ約50トンあったといわれるが、原爆によって天主堂北側の崖下に崩落し、川の流れをふさいでしまった。その後、 川を移設し、原爆の威力のすさまじさを物語る貴重な被爆資料として公開されている。 |
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天主堂北側の崖下に崩落した左塔の鐘楼 |
大破した左塔のアンゼラスの鐘破片 |
被爆した聖人の石造遺構
浦上天主堂の正面左手表庭に、原爆で破壊された聖人の石像が並んでいる。どれも熱線で黒く焦げ、強烈な爆風の影響で鼻、指、頭部などが欠けた痛々しい姿である。
右は聖セシリア像、中央はイエスの聖心像、左の像は頭部の破壊でわかっていません。遺構の一部は、信徒会館原爆資料室にも展示保管されています。
教皇ヨハネ・パウロ二世 (文 銘板碑文)
私は、栄光と悲劇の跡をとどめている歴史の町、ここ長崎を訪れ、栄光を勝ち取り悲劇を乗り越えた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話できることを神に感謝します。私は大きな愛情と、この地方教会の素晴しいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって皆さんにご挨拶の言葉をのべます。
(二十五日の説教の冒頭のお言葉)
教皇は浦上の司教座聖堂に於いて、1981年2月25日司祭叙階のミサを司式され、翌26日に修道女達にお話をなされた。
26聖人殉教者・聖ルドビコ茨木像
浦上天主堂の左奥にあります。
殉教の1年前に受洗。いつも明るく朗らかであった。京都の聖フランシスコ会修道院で侍者として仕える。
司祭が逮捕された時、彼は除外されたが、捕えるよう願い出た。
「自分の十字架はどこ」と刑場で尋ねた話しは今も語り継がれる、最年少者。
殉教時の年齢12歳
像の台座になっているのは、当時倒壊した浦上天主堂の一部を使ったと思われます。
日本26聖人殉教地
平和の聖母像(万人塚)
浦上天主堂(浦上教会)へ登る坂道の左側に立っています。
平和を世界へ訴える永井隆博士に共鳴したイタリア・カトリック医師会は、日伊親善と世界平和の祈りを込めて、カララの大理石で聖母像を造り長崎市に贈ることにした。
ローマ教皇ピウス12世によって「平和の聖母」と名づけられた。
永井隆博士は早くより台座を造られ、聖母像が到着するのを待っておられたが、昭和26年(1951)5月1日永井博士の逝去後の6月6日に長崎に到着17日に建立された。
拷問石
明治4年6月中旬、長崎浦上切支丹教徒260名は、博多の獄舎より転送せられて萩に来り、堀内岩国屋敷に収容された。
萩での食事等の待遇は博多より余程良かったが、それでも明治5年4月の帰国までには、相当の死亡者(28人)を出している。その間、信者は獄吏、神官等より改宗の説諭を受けたことは勿論であるが、中々転向しないので、遂には非常手段として、鉄砲責、寒晒などと呼ばれる拷問方式が用いられた。
その時、信者が座らせられた石に「拷問石」と呼ばれたものがあり、それには切支丹の尊敬名誉の標章である十字架が刻まれてある。石は花崗岩の庭の飛び石である。
此の「拷問石」は牢番長であった寺本源七氏が、大正元年頃堀内から持ち帰り、自宅の庭に据え置かれ、霊を慰めたとされる。その後、子孫が保存されていた。
2008年7月10日、浦上天主堂に寄贈され、安置された。「拷問石」の上に太めの茎で編んだ葦簀(よしず)を敷き、全員がその上に座らされて拷問、説諭を受けたが、その中でも最も有名な拷問が「寒ざらしのツル」の話しである。22歳のツルは裸にされて18日間(昼間)の拷問を受け、一週間目には大雪と成り、雪の中に晒され、18日目に雪の中に倒れた。
浦上天主堂(長崎教区カトリック浦上教会)
所在地:長崎市本尾町1-79
アクセス:松山電停から徒歩約10分 カトリックセンター前バス停から徒歩約1分
拝観料:無料 休館日:月曜日 開館時間:9:00~17:00
浦上天主堂(Google マップ)
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