平和祈念像(原爆中心地の北側の丘)
1955年8月8日(昭和30年)に完成。青銅製の像で高さ9.8m 台座3.8m 重量約22トン 制作者:彫刻家 北村西望氏
出典:平和祈念像の精神(原爆10周年記念式典記録)
この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、原爆犠牲者の鎮魂と永遠の平和を願い、天を指す右手は「原爆の脅威(長崎の過去)」を、水平にのばした左手は「平和(長崎の未来)」を示し、
顔は神でもなく仏でもなく、軽く目を閉じて静かに7万有余の戦争犠牲者の御魂の冥福を宗教を越えて祈る姿である。
毎年8月9日、「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」がここで催しされ、全世界に向けて「長崎平和宣言」がなされる。
This statue was completed in 1955, ten years after the atomic bombing.
The raised arm points to the threat of nuclear weapons and the out-stretched arm symbolizes peace.
平和祈念像作者の言葉
あの悪夢のような戦争 身の毛のよだつ凄絶悲惨 肉親を人の子を かえり見るさえ堪えがたい眞情 誰か平和を祈らずにいられよう 茲に全世界平和運動の先駆として 此平和祈念像が誕生した
山の如き聖哲それは逞しい男性の健康美 全長三十二尺余 右手は原爆を示し左手は平和を 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る 是人種を超越した人間 時に佛時に神 長崎始まって最大の英断と情熱 今や人類最高の希望の象徴
昭和30年 春日 北村 西望
平和の泉
あの日、昭和20年8月9日、原子爆弾により体内まで焼けただれた被爆者は「水を…」「水を…」と、うめき叫びながら死んでいった。その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、
あわせて世界恒久平和を祈念するため、1969年(昭和44)8月、この「平和の泉」が造られた。
噴水池の直径…18メートル
噴水の高さ…0.5~6.0メートル
刻々と変化する水形は、平和のはとの羽ばたきを形どり。
ツルの港といわれる長崎港のツルも象徴している。
「平和の泉」の正面には被爆当時9歳だった山口幸子さんの被爆手記の一節が黒い御影石に刻まれてあります。
…… のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが 一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から
この被爆手記は、永井隆博士が「原子雲の下にあって、危うく生き残った子供達が、どんな目にあい、どんなふうに感じたかを知りたい」という声にこたえて手記集「原子雲の下に生きて」として1949年に出版した中に掲載されてある。
長崎刑務所浦上刑務支所遺構
「長崎刑務所浦上刑務支所」は、松山、岡、橋口町の3か町にまたがる丘の上にあり、敷地約2万㎡、庁舎面積約1万3千㎡の爆心地にもっとも近い公共の建物であった。
周囲の鉄筋コンクリート塀の高さ4m、厚さ25cmは、ほとんど倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突1本を残して倒壊全焼した。
刑務所内にいた職員18名、官舎居住者35名、実刑者及び刑事被告人81名(そのうち中国人32名、朝鮮人13名)計134名全員が即死した。
動員学徒の碑・長崎の鐘
昭和52年7月20日建立
原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごたらしい原子原爆が再び地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けて、恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため建立された。
碑文
長崎の鐘よ鳴れ 長崎の鐘よ鳴れ
私達の肉親を奪った 私達のからだをむしばんだ
あの原爆が いかに恐ろしいものであるか
あの戦争が いかに愚かなものであるか
長崎の鐘よひびけ 長崎の鐘よひびけ
地球の果てから 果ての果てまでも
私達の願いをこめて 私達の祈りをこめて
戦災復興記念
昭和20年8月9日午前11時2分、一個の原子爆弾によって長崎市は、一瞬のうちにその大半が焦土と化した。
その範囲は爆心地からおよそ3.5キロメートル、面積約6.7平方キロメートルに及び、死傷者約14万9千人、被災家屋1万8千余戸に達した。
昭和21年9月「戦災復興計画基本方針」にもとづき、復興土地区画整備区域を決定、直ちに事業に着手した、混乱した戦後の社会状況のなかで、
しかも当時としては画期的な大事業であったが関係者の協力のもと、幾多の困難を克服し着手以来28年余の歳月を費やし、昭和50年2月完了するに至った。
戦禍の街は、今や希望と繁栄に輝く平和都市として再現されたである。
ここに都市再建の業績を記録し、記念碑を建立する。
昭和50年11月14日
長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂
昭和20年8月9日午前11時2分米軍が原子爆弾を長崎に投下した。この時の即死者7万4千余名および避難の途中或いは収容加療中に死亡した者のうち、一家全滅または身元不明のため無縁となった遺骨、爆心地付近に散在していた多くの遺骨は、
市町村役場や寺院、町内会その他一般篤志家の手で、埋葬供養されていた。
昭和30年、無縁死没者の霊を慰めるため、長崎市民生児童委員協議会と長崎市が共同して、市内に散在していた無縁遺骨を引き取った。
昭和34年「原子爆弾死没者慰霊納骨堂」が完成
平成6年「長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」が完成
令和4年5月1日現在 安置遺骨数 8,964柱(うち氏名判明者 122柱)
世界各国から贈られた平和と人類を象徴するモニュメント
海外から寄贈された16基のモニュメント(寄贈された年代順で記載)
平和の記念碑ポルトガル共和国・ポルト市寄贈 |
人生の喜びチェコスロバキア社会主義共和国寄贈 |
Aコールブルガリア人民共和国寄贈 |
諸国民友好の像ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)寄贈 |
未来の世代を守る像オランダ王国 |
平和ソビエト社会主義共和国連邦寄贈 |
乙女の像中華人民共和国寄贈 |
世界と平和との花 ポーランド人民共和国寄贈 |
人生の賛歌イタリア共和国 |
太陽と鶴キューバ共和国寄贈 |
平和の碑ブラジル連邦共和国 |
無限トルコ共和国 |
地球星座アメリカ合衆国 |
戦争に対する平和の勝利アルゼンチン共和国 |
平和のマントニュージーランドと |
生命の木:平和の贈り物オーストラリア連邦 |
長崎平和公園(平和祈念像)
所在地:長崎市松山町・岡町
アクセス:松山電停(バス停)から徒歩約3分
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